箱舟の詩

手記

呪い、返歌、あるいは一つの解法。

 叩く。叩く。ただひたすらに叩く。目の前にある画面を睨みつけ。キーボードを踏みつけるように叩く。愛憎と悲嘆と憤怒と、それとほんの少しの寂しさを混ぜた感情が、頭から心臓を経て指先へと伝わり出力される。瞳に映るスクリーンのそれは、かつて現実として経験したそれらとも、今頭で思い描いているそれとも、魂が感じたそれとも違う、我がままを煮詰めた醜い合成獣にしか見えなくて。耐えきれなくなって半分ほど消した。

 

 あのくそったれな神様も、こんな矛盾と対峙したのだろうかと思うと、ほんの少しだけ同情の余地がわいた。それでも、許すわけにはいかないのだけれど。

 

 

 

 昂った感情を鎮めるために、コーヒーを呑んで一息吐く。口から伸びた白い雲は、明るい夜に溶けて消えた。

 

 

 

 私が神様に押し付けられた『カミサマ』役から降りて、もうすぐ二年が経つ。当時心の中に燃え上がった様々な炎も、今はわずかな燻りにすぎず、ときたま吹く隙間風に当てられて小さく伸びあがるのがせいぜいだった。とうに熱さを忘れ身体を優しく温めるだけの小さな焚火は、それだけを単一で観測するのであれば、きっとあと一年もすれば灰と炭になって消えてしまうだろうと、誰もが思うだろう。私自身も、そう思うから。

 

 それでも。こうやって作業をしている間だけ。この炎はあの時と、役を降りた時と同じように、煌々と、赫々と、天まで届かんほどの火柱となる。綺麗に整ったはずの部屋は煤だらけとなり、視界は灰色の煙に覆われる。視野狭窄五里霧中。手に取るモノの感覚すら分からなくなり、頭は感情に支配される。気持ちのよいトリップと、直後にのしかかるまとわりつくような重圧。何度も何度も真っ二つに折り、そのたびにセロハンテープでぐるぐると補修をした筆は、もはや原型を留めてはいない。

 

 

 

 人によって解釈は様々だろうけれど、私は物語を紡ぐことは、夢と現実の境を曖昧にすることだ、と考えている。現実を夢に、あるいは夢を現実に。嘘を真へとひっくり返す、ある一面からすれば素敵な魔法。境界線を越える呪い。

 

 根本に立ち返り、現実を定義するモノとはなんだろうか、と思案する。現実とは私たち個人が認識している、それぞれの視点の集合体であると考える。それに対して夢幻とは、同じく私たち個人が『個人的にのみ』認識している視点そのものであると考える。この二つには個人内では大きな差はなく、またそれらを完全に共有する術はないと考える。なぜなら外界への出力の段階で、それらの性質は良きにしろ悪しきにしろ大きく変質してしまうからだ。そうであるなら、自身の中の現実とはただそれらを自身で切り分けているに過ぎず、すべては現実であり夢幻であるはずだ。

 

 で、あるにも関わらず、世界は純然と「現実」と「夢幻」の境界線を引いてくる。

 

 これは、ただの仮説である。ただの仮説で、あるいは私自身の夢幻かもしれない。けれど。

 

 

 その境はきっと、多数が同じものを観測したと、そう感じることそのものだと思う。

 

 「そこに兎がいた」と、我々の大多数が嘘偽りなく感じたのであれば。たとえ兎自身がそう感じていなかろうとも、そこに兎はいたのだ。

 

 

役柄だけの『カミサマ』と違って、『神様』と呼ばれる彼らにはそういう力があって、私たちに今日も夢という名の現実を突きつけ続ける。だからその神様に反旗を翻して、世界を変革しようとするなら、自分自身も人間や『カミサマ』の枠を取り払って。本当に神様になるしかないのだ。

 

 

 

 ……無論。これはただの言い訳であり、夢想であり、世迷言。こうやって言い聞かせ続けなければ、きっと壊れてしまうから。

 

あなたと人間として会いたくて。『カミサマ』の枠から外れるために。今日も私は神様になろうとする。思い出への冒涜であると泣きながら。神への呪詛を吐き散らしながら。天に中指を立てながら。心の中にあった現実を、アクリル絵の具で厚く塗りつぶしていく。

 

 描いた『私』は、人間のまま彼女たちと出会えていて。それを私は、泣きながら眺めている。

 

 

 

 ほとんど空になったコーヒーカップをぐるりと回す。内側に残った黒い水滴は、カップの底を薄く覆い、不規則な図形を描いた。

 

 

 

 私は、たしかにそこに、兎を見たのだ。

 

 

 

《 Ready to get on the ark?》